数日後、意識を取り戻した少年は司祭館に孤児として引き取られたのだが、その様子は生きているだけの人形の様だった。
寝台に横たわったまま、身動きすることなく虚ろな瞳で天井を見つめている。
口許まで食事を近づけられても全く反応を示さない。
命を繋ぐため、看護役の神官が無理矢理に飲み込ませるという状態だった。
傷が治って、ようやく自力で起きあがれるようになってからも、他の子ども達の遊びの輪に入っていくこともない。
『殺意の暴走』という同じ過ちを繰り返さないようにとの配慮で、首から下げられた『まじない』の呪符を常に握りしめ、笑うこともなければ、泣くこともない。
日々言葉無く虚ろな視線を空(くう)に向けるだけだった。
そして、彼は未だ、自分の名前を尋ねられても答えようとはしなかった。
家族という何ものにも代えがたい拠り所が、突然破壊されたのだ。何の前触れもなく、しかも目の前で。
当然と言えば当然のことなのかもしれない。
だが師との約束を守るため、ミレダはそんな彼をどうにか現実世界へ引き戻そうと頻繁に足を運んで様々なことを話しかけた。
けれど彼は、やはり何の反応も見せなかった。
ある日ミレダはいつものように少年の所へ向かう途中、最も会いたくない人物と鉢合わせしてしまった。
そう、宰相マリス侯と、その取り巻き達だ。
「これは殿下、ご機嫌麗しく拝見し喜ばしい限りです」
うわべだけの礼儀正しい言葉に、ミレダは無言で頷く。
そのころ父である皇帝は病の床にあり、ルウツの実権は完全にマリス侯の手に落ちていた。
慇懃(いんぎん)な態度とは対照的な勝ち誇ったような視線から逃げるように、ミレダはそのまま目を伏せる。
けれど唐突にミレダはある事を思った。
ここで飲まれてはいけない。
立ち向かわなければ、あの少年を助けることができようはずもない、と。
ミレダ
ささいなきっかけで自我と言葉を取り戻した少年は、大司祭直々に神官となるべく修練を始め、ミレダと共にジョセの手ほどきで剣を学ぶようになった。 しかし、意外なことに剣術においてはすぐにミレダと対等に打ち合いが出来るようになったが、神官の領域では『司祭並みの力は持っている』にもかかわらず、全く成長の兆しがなかった。 成人する直前、未だ神官としては最下位の修士の位についていた彼は、ある選択を迫られていた。 このまま司祭館に残り修練を続け、一つ上の位である導士となった後、神官騎士団に入るか。 或いは司祭館を出て、直接皇帝に仕える通常の武官となるか。 正直、ミレダは彼に前者の道を選んで欲しいと思っていた。 そう口添えをして貰うべく、カザリン=ナロードに彼女は訴えたが、大司祭は僅かに顔を曇らせて言った。 あの子は子どもの頃の悲しい事件で、『聖職者』である以前に『人間』として生きるために必要な何かが欠落してしまっている。 そして本人もそれに気付いているが、その隙間を彼自身が埋めようとはしない、と。 それを聞いたミレダはすぐさま、自室で『祈りの書』を黙読する彼の元へ向かった。 お前にはそれだけの能力があるのに、どうして生かそうとしないのか。 血相を変え、そう怒鳴り込んできたミレダに、彼は本を閉じながら素っ気なく言った。 自分は武官になるつもりだ、と。「そんな……そうしたら、乱戦にかこつけて味方に……宰相の息のかかった奴らに殺されるのが関の山だぞ!」 そう主張するミレダに、彼は常の如く表情を変えることはない。 そこまで見くびられているとは思わなかった、とうそぶいて見せてから、藍色の瞳をミレダに向けた。「どのみち、俺は司祭……聖職者になるには致命的な禁忌を犯してる。このままここで燻
「……万事予定通りに運んでおります。この様子ですと、間もなく戦闘開始となりましょう」 美しい女帝が報告書の末尾まで目を通した頃合いを見計らい、宰相はかしこまってそう告げる。 ルウツ皇帝メアリは無言でうなずき、手にしていたそれを宰相へ向け差し出した。 恭しくそれを受け取る自分よりも遥かに年長の重臣に、メアリは小首をかしげながら尋ねた。「確かに、今の所はそなたの予定通りのようですが……混乱をきたすという戦闘中に、そう容易(たやす)く行きましょうか?」 皇帝の言葉を受け、宰相は恐れながらと前置きをした上でこう述べる。「混乱しているからこそ、実行が可能ではないかと思われます。無論、例の者が万一失敗したときの手はずも滞りなく……」 その返答に、メアリは無邪気と言ってもいい微笑を浮かべた。「さすがに、これまで権力の中を泳いできただけのことはありますね。では、あえて聞きますが……」 何なりと、とかしこまるマリス侯に、メアリは少々意地悪な口調で問いかける。「『彼』が無傷で戻ってきた場合は、一体どうするのです?」「その時に応じた然るべき手段を取るまでです。陛下におかれましては、何もご心痛に及びません」 生真面目に頭を垂れ、自分の娘ほどの年齢の女性に対し臣下の礼を取る宰相。 そんな忠臣に、メアリはあどけない少女のような表情で答える。「わかりました。この件に関してはそなたに全て一任します。……それにしても」 ふっと、唐突にメアリは溜息をつく。 今度は宰相が首をかし
当初の予定通り、別働隊が先陣を切って敵とぶつかったという報告が本隊にもたらされた。 予想以上に早い到達に、敵は総崩れとまではいかなかったものの、いったん引いて陣形を立て直し、味方の到着を待っているかように見えるという。 ならば、その前に叩き潰してやればいいんだな、そうシーリアスがうそぶくと、周囲はどっと沸き立った。 その頃ユノーの剣技や馬術は、歴戦の勇者とは行かないまでも並みの騎兵と遜色ない物になっていた。 その事実に一番驚いていたのは、他でもないユノー本人である。 戸惑うユノーに僅かに苦笑を浮かべながら、命令を下した張本人の司令官は言った。 虫も殺せないような優しい顔をしていても、その中に流れる血は紛れもなく武門の家柄のそれだったのか、と。 明日にも本隊が戦場に到達するだろうという段になって、シグマが何気ない口調で前を行く司令官に尋ねた。「大将、何で坊ちゃんにまともな攻撃方法を教えないんですか?」 素質はあるんだから、と言うシグマに指南役だったカイもうなずき同意を示す。 事実、ユノーはこの行軍の間にカイから教えられた防御の基本形を全て拾得していた。 その剣技はカイの剣のみならず、シグマの戦斧をも弾き返すほどにまで上達していたのである。 だが、そんな両者にセピアの髪の司令官は肩越しに素っ気なく答える。「取りあえず今回はお預けだ。あせって付け焼き刃で覚えても逆効果になる。前にも言ったがな」 第一、初陣の仮騎士待遇に頼るようでは蒼の隊の名がすたる、と皮肉に笑って見せた。 心外、とむくれるユノーに、シーリアスはやはり肩越しに言う。「戦力外と言っている訳じゃない。貴官が防御に徹してくれれば、充分俺達が戦える。生きて帰ればこの先いくらでも機会は転がっている。何も急いで手を汚すこともないだろう?」「けれど……自分も一応、隊の一員として……」「生半可な知識で人を殺しても、下手をすれば混乱に陥るのがオチだ。敵の攻撃より、そっちの方が洒落にならない」「&
「何をしている、ロンダート卿! 早くその子を親と同じ所へ送ってやれ!」 耳慣れぬ鋭い声が、微かに聞こえてくる。 それに答えるのは、懐かしい父の声だった。「で、出来ません! 敵国に連なる者とは言え、幼い子どもを……」「子供一人敵国に残されて幸せだと思うか? ひと思いに殺してやるのが思いやりだろうが!」 激しいやりとり。 無数の白刃がその答えを待つかのように、ある一か所を取り囲んでいる。 が、一際豪奢な装備を付けた分隊長と思しき人物が一歩踏み出す。「ならば、私が貴官に代わって親のもとへと送ってやる! そこをどけ!」 刹那、幼い子どもの叫び声が空間を支配する……。 そのあまりの悲痛さに、ユノーは思わず耳をふさぐ。「……罪を背負った人間は、死後安住の地へ導かれることなく、地の底で永久に焼かれ続ける。あくまでも昔猊下から聞いた話の受け売りだがな」 固い声がユノーを現実世界に引き戻した。 感情を写さぬ藍色の瞳は、遥か彼方に向けられていた。「それが事実だとしても、お前は戦場へ行くつもりか? 」「……では、ご無礼と承知でお尋ねしますが、どうして司令官殿は戦場に身を置かれるという道を選択なさったのですか?」「死ぬため、かな。……俺は今まで、『死ぬ』為に生きてきたようなものだから。全てが無くなったあの時から……」 感情のない声が、即答と言って良いほどのタイミングで戻ってくる。 凍り付いた藍色の瞳は、彼方を見つめたままだ。 『生への執着こそが蒼の隊の必須条件』と言った人がなぜこんなことを言うのだろう。 しばしためらった後、ユノーは再び食い下がる。「……それではあまりにも寂しくはありませんか? 誰もそれを止めようとはなさらないのですか?」 低い笑い声が、それまで感情を表さな
そして、夜が明けた。 遥かに望む山の端がほのかに光り始める頃、『最後のとどめ』をさすべく残っていた蒼の隊精鋭は食事もそこそこに各々武装を整え始めている。 が、彼らを指揮するはずの司令官の姿がどうしても見あたらない。 不安げに周囲を見回すユノーに、声をかけてきたのはシグマだった。「よお、坊ちゃん。大将起こしてきてくれないか」 はい、解りましたと一歩踏み出そうとしてから、ユノーはその違和感に足を止める。 確かに司令官は負け知らずの猛者だが、そんな人がよもや決戦を前にして寝過ごすなどということは考えられなかったからだ。 そんなユノーの心中を察してか、シグマは飽きれたような表情を浮かべている。「いや、いつものことだよ。大将は決戦前になると寝坊する癖があるのさ。何だか知らんけど」 涼しい顔で言ってのけるシグマに、堅物の参謀長はあからさまに苦々しげな視線を向ける。 その怒りの巻き添えを食らう前に、ユノーは司令官の元へ向かって走った。 見えてきた天幕は、一軍の将が使うにしてはあまりにも質素な物だった。 何も言わなければここに指揮官が居るとは誰も思わないだろう。 だが、それとは異なる理由でユノーは不意に足を止めた。 小さな天幕から漂ってくる空気は明らかにおかしい、そう感じたのだ。 けれどこのまま立ちつくして、その人の目覚めを待つ訳にもいかないので、意を決してユノーは入口の幕を上げた。 そこから溢れ出てきたのは、草原では感じるはずのないかび臭くじめじめした空気だった。 あまりの悪臭に堪えかねて、ユノーは思わず鼻と口を塞ぐ。 そして天幕の中へ足を踏み入れると同時に、無数の思念が濁流のように無防備なユノーの脳裏へ流れ込んできた。──生かして貰っているだけ有り難いと思え、罪人の子め……────お前は一体何人殺したか知っているのか? この虐殺者が……── それから耳を塞ぎたくなるような下卑た笑い声が続く。 落ち着け、と自分に言い聞かせ、ユノーは固く閉じた目を恐る恐る開く。 果たしてそこ
居並ぶ将兵の前に姿を現した『無紋の勇者』は、おもむろに口を開いた。「最衛隊として、五百を本人に残す。負傷者は可能な限り収容しここに運べ。指揮はシグマに任せる」 この状況では妥当なその言葉に、立場の異なる二人の顔に図らずも全く同じ失望の表情が浮かぶ。「大将、それはないよ! せっかくここまで来たのに、ひと暴れもできないなんて」「後衛の守りは、是非私に…」 ほぼ同時に口を開くシグマと参謀長。 が、それを予想していたのか司令官は表情を動かすことなく答える。「ここは我々の最後の砦だ。我々に万一の事が起きた場合は、それなりの経験がある者に退却の指揮を執って貰いたいからこそシグマに任せる。参謀長たるあなたには、戦場で若輩な俺を補佐して欲しい」 その人にはしては、珍しく正論である。 確かに常勝と呼ばれている蒼の隊ではあるが、それが今回もそうであるとは限らない。 蒼白になる参謀長の隣でむくれているシグマの肩を、カイがなだめるように叩いた。「まあ、その分自分が叩きのめしてくるからさ。少しは我慢しろよ」 長年の戦友にたしなめられてもなお、シグマは納得がいかないとでも言うように頬を膨らませて腕を組む。 その時、最前線からの伝令が駆け込んできた。「第二部隊、突入しました! 現在混戦状態となっております!」 無言で頷くと、『無紋の勇者』と呼ばれているその人は高らかに命じた。「総員騎乗! 友軍と合流する!」 ガシャガシャと金属がぶつかり合う音が響く。 それに遅れまいとしてユノーは慌てて鐙(あぶみ)に足をかけ、鞍の上に自らを引き上げる。 既に馬上の人となっていた司令官は宝剣を頭上にかざす。「”見えざるもの”の加護よ、我らが剣に宿り賜え!」 威風堂々としたその姿と声に、力強い鬨(とき)の声がそれに応じる。 最高潮に達しようとしていた戦意に、ユノーははからずも身震いする。 シーリアスは、邪気を切り払うかのように掲げた宝剣を水平
ついにここまで来てしまった。 もう逃げられない。 ユノーが覚悟を決めたときだった。 日の光に、シーリアスの宝剣が閃く。 射すくめられたようにユノーは固唾を呑んだ。「総員、抜刀! 突撃開始!」 その声と同時に、蒼の隊精鋭部隊は急斜面を駆け下り、修羅場と化した戦場に飛び込んでいく。「ぼさっとするな!」 いつも以上に鋭いシーリアスの声に、ユノーは慌てて敵の攻撃をなぎ払う。 一方で、シーリアスが手にしている宝剣から一陣の風が起こるたび、敵はばたばたと落馬していく。──暴走させれば敵も味方も仲良くあの世行きだ……── 司令官が常々口にしていた言葉の真意を、ユノーは身をもって知った。 確かにこれは、付け焼き刃の短時間講習で習得し実践するのは無理だ。 一つの攻撃を受け流してほっとするの持つかの間、次の敵騎兵が躍りかかってくる。「貴官はついてきて、敵の攻撃に対抗する『壁』を作るのに専念しろ」 混乱の中であるにもかかわらず、シーリアスの声は確実にユノーに届いた。 慌てて顔を上げたその視界の先で、一人の敵騎兵が胸から血を吹き上げて落馬する。 乱戦は続いた。 青々と茂っていた草原は、いつしか流れる血によってところどころどす黒く染まっている。 あちらこちらで剣と剣がぶつかる火花が散り、放たれた矢が空を行き交う。 斬られた者は自ら作り出した赤い沼に沈み、矢にあたった者はその傍らに落ちる。 敵味方の入り乱れるその戦場で、シーリアスは常に陣中にあり、返り血で全身を深紅に染めていた。 ユノーにとって意外だったのは、色を失った参謀長だった。 真っ先に切り伏せられると思っていたその人は、巧みにシーリアスとユノーの間に割ってはいることにより、自らは何もすることなくどうにかこの戦場を泳いでいる。 だが、この乱戦の中、その人を気にとめる者は誰一人いなかった。 誰もが生きるために、敵を屠(ほふ)っていたからである。 いつし
どす黒い思念が、ユノーを取り巻く空間に先程より強く流れ込んでくる。 次の瞬間、彼の視界の端で何かが動いた。 何事かと向き直った瞬間、参謀長を取り巻く一角となっていたカイが手にした剣を閃かせ虜となっているその人を切り伏せた。 と同時に、その勢いを保ったままシーリアスに向かい突っ込んでいく。 異変に気付いたシーリアスが振り向いた時には、カイは絶叫をあげ大上段から剣を振り下ろそうとしていた。 間に合わない。 その場にいた誰もが、等しく目を覆う。 が、信じられないことが起きていた。 鈍い音と共にカイの剣の先端部は何かにぶつかったかの様に折れて弾け飛び、草むらの上に突き刺さった。 強固なまでのユノーの防御が、皮肉にもその術を教えた人からの攻撃を防いだのだ。「何で……何で貴方が、こんなことを……」 まだ信じられない、と泣きそうになりながら問うユノーに、カイは剣を引き寂しげに笑った。「やっぱり防御止まりにしておいて正解でしたね、司令官殿。こんなに不安定な精神状態じゃ、何が起こるか解らない」 最後まで貴方にはかないませんでした、とカイは自嘲気味に笑う。 そして、ユノーの方を見、彼は寂しげに言った。「……そのうち、君にも解るときが来るよ。うだつの上がらない下級貴族の惨めさがね」 言い終えると同時に、カイは先端が折れた白刃を自らの首筋にあてる。「……君は、自分のようにはなるなよ」 そして次の瞬間、カイは剣を一息に引いた。 止める間すらなかった。 その傷口から噴水のように鮮血があふれる。 即死であろう事は間違いなかった。 自らが作り上げた深紅の沼の中に、事切れたカイは馬の背から落下する。 その顔には何故か満足げな微笑が浮かんでいた。 その様子を、凍り付いたようにユノーは見つめていることしか出来なかった。 手を差し伸べることも、泣き叫ぶことも出来ぬままに。「……安心しろ。お前の責任じゃない。奴が勝手に選んだ道だ」 背後から、いつも以上に突き放すようなシーリアスの声がする。 それが恐らく自分の心情を思っての精一杯の慰めであることを、ユノーは理解していた。 いや、理解しようとしていた。 だが、結果的に自分がカイを殺してしまったのではないかという考えがよぎる。 けれど、もしあの時、自分が飛
後味の悪い慰霊式の日に周囲で起きた様々な出来事に未だ混乱しているユノーとは裏腹に、時間はことのほか静かに、そしていつも通りに流れていた。 そして気が付けば、忘れるはずもない父の命日はいつの間にか目の前に迫っていた。 せめて墓前に良い報告……騎士籍を取り戻したとの報告ができれば、そう思っていたのだが、未だその報せはない。 やはり生きて戻ってきては駄目だったのか、そうユノーは諦めかけていた。 だが予想に反して、ロンダート家に宮廷からの使者が訪れたのである。 明日参内するように、との命令を携えて。 その見計らったかのような事の展開に多少の疑問を抱きながら、ユノーは慰霊祭の時身につけていた礼装を再び引っぱり出した。 そして、翌日。 果たして迎えの馬車が、ちっぽけな家の前に現れた。 街の目抜き通りを抜け、宮殿の正門を馬車は粛々(しゅくしゅく)と走り抜ける。 皇宮の敷地にはいること数十分、手入れの行き届いた庭園の緑を眺めるユノーは、そのまぶしさに目を細めた。 やがて馬車は謁見の間がある建物に横付けされる。 扉を開ける御者に会釈をしてから、ユノーは案内役の侍従に従い、謁見の間へと向かう。 初めて足を踏み入れる選ばれた者達しか立ち入ることが許されぬ空間は、一目見てそれと解る高価な絵画や彫刻などで埋め尽くされている。 やがてその先に、一際大きな両開きの扉が見えた。 脇に控える者が左右からそれを開くと、侍従は脇に退き、こちらでお待ちください、とユノーに告げて頭を垂れた。 会釈を返し、ユノーは赤い絨毯の上に足を踏み出した。 背後で重々しい音と共に扉が閉まる。 高い天井とそれを支える柱には、細かい彫刻と彫金が施されており、明かり取りの窓から射す光が一段高いところにある玉座の上に落ちる。 さすがに貴族とはいえ末端の騎士との謁見とあって、その前には薄絹の幕が貼られ、彼のいる『世界』とは隔てられていた。 いや、ユノーような最末端なものに対しては代理のものが現れて、儀礼的に辞令を伝えて終わるはずである。
「まったく、お前という奴は今までどこで何をしていたんだ?」 後宮内のテラスで遅れてやって来た師匠と友人の姿を認めるなり、ミレダの口からは予想通りの怒声がついて出る。 彼女のかたわらには卓がしつらえてあり、その上には茶器や菓子が並べられている。そして、一足先に訪れていたカザリン=ナロードが、やや眉根をよせその様子をみつめていた。 慰霊式の後、お前が無事に帰還したことを慰労してやるからささやかながら茶会を開いてやる。そう提案したのはミレダだった。 公的ではないから強制力もないのだが、皇帝の妹姫というミレダの身分を考えると、それは半ば命令と言っても良い誘いである。 いわば主賓であるにもかかわらず遅れてきたシーリアスは、どこか面白くなさそうに主催者の苛立ちを真正面から受け止める。 だが、いつもとは異なりミレダからわずかに視線をそらし、やや離れたところに立ち尽くしたままそこから動こうとしない。 全てを押し殺したような表情から、カザリン=ナロードは何かを感じとったようだった。 不安げに眉根を寄せ、大司祭は静かに口を開く。「……何か、あったのではないの?」 何気なくかけられたその言葉に、ことの顛末を説明しようとしていたジョセが一瞬固まる。 けれど、問われた側はそんなに大騒ぎするほどのことではないとでも言うように、いつもと同様感情のない声で答えた。「何故自分がこの立場にいるのか……猊下や殿下のお側にいるきっかけを、ある人物に見られただけです」 わずかに目を伏せ吐息を漏らすシーリアス。青ざめた顔でカザリン=ナロードはジョセに向き直ると、ジョセは沈痛な表情を浮かべ一つうなずいた。 ただ一人話が見えないミレダは、少しいらだったようにシーリアスに鋭い視線を突き刺す。そして、表情同然の鋭い声でまくし立てた。「だから一体、何がどうしたんだ! 私にわかるように説明しろ!」「宰相の飼い犬に力づくで嬲られている所を、ロンダート卿に見られただけだ」 まるで他人事のように言うその人に、ミレダは返す言葉も
「汝に平安あれ」 先程見た光景と全く同じその言葉に、ユノーは思わず振り返った。 その視界に入ってきたのは、心ここにあらずと言うような表情を浮かべて起きあがろうとする上官の姿だった。「……師匠。……どうして……こちらに?」「どうしても何も、突然姿を消したのは、お前の方だろう。おかげで殿下はたいそうご立腹だ。しかもいらぬ手間を部下にかけさせるとは……」 珍しく戸惑った様な藍色の瞳を向けられて、けれどユノーは立ちすくみ、ややあって思わず数歩後ずさった。 そして、震える声でなんとか取り繕うとする。「も……申し訳ありません……。勝手に……お邪魔して……。あの……」 けれど、経験値ではユノーは司令官と比べると完全に劣る。 鋭い視線を投げかけられて、彼は完全に口ごもってしまった。「……ロンダート卿、何を見た?」 開戦の直前に投げかけられたのと、全く同じ質問である。 けれど、今度はユノーは返すべき言葉を持たなかった。 その様子に全てを理解したのだろう、シーリアスはわずかに吐息を漏らし、苦笑になりきらない表情を浮かべて見せた。「わかった。酒場の笑い話のきっかけぐらいにはなるだろう。……全部本当の事だから、気にするな」 その言葉が終わるか終わらぬかのうちに、ユノーの涙が埃の積もった床に落ちた。「…&hellip
周囲は完全な暗闇に包まれていた。 申し訳程度に敷かれたぼろ布の上に横たえられているのは、先ほどまで鞭打たれていたあの少年である。 冷たい石に囲まれた狭い空間で、ぴくりとも動かない。 その場所を満たしているのは、もう何年も動いた形跡がない重苦しくじめじめとした空気と、少年の身体に刻まれた傷口から流れ落ちる血の匂いだった。 地下牢、という言葉が刹那ユノーの脳裏によぎった。 そして少年に向かい手を伸ばした瞬間、ユノーの思念は少年と同化していた。 何時ここに連れて来られたのかもわからない。いや、なぜこんなことになったのかもわからない。 ただ、全身の傷が脈打つように疼(うず)く。 傷は腫れ上がり熱を持ち、地下牢内の寒さを感じないほどだった。 時折天井から水滴がむき出しの背にしたたり落ちるたび、その痛みは激しくなる。 そして痛みに耐えかねて体を動かそうとすると、更なる激痛が襲いかかってくる。 叫び声を上げる力も失せ、ただ目を閉じ涙を流していたその時、闇の中に変化が起きた。 鉄格子のはまった扉の隙間から、明かりが漏れてくる。 同時に何者かが格子越しに中を確認しているらしい視線を感じた。 しばらくしてがちゃり、という重々しい音がした。 抵抗するかのような嫌な音を立てて扉が開き、ランプを手にした穏やかな風貌の武人が踏み込んできた。 その武人はゆっくりと近づき、用心深く身をかがめ、手をこちらに向けて差し伸べてくる。 逃げなければ。 何故そのように感じたのかすら解らない。 ただ咄嗟(とっさ)にそう思い、顔面近くにあった彼の指先に噛みついた。「大丈夫だ。私は助けに来たんだ……」 言いながら、武人は両の手をこちらに差し伸べる。 抱きかかえられそうになるところを無茶苦茶に暴れ、差し出された武人の手の甲を、近づいてくる頬を引っ掻く。 けれど、はめられた枷と繋がれた鎖が、この僅かな抵抗を試みるたびに確実に体力を奪っていく。 意味を成さない叫び声をあげながら、残された僅かな力で、這うように武人の手中から逃れようとする。 けれどその指先は、すぐに剥き出しの石壁にぶつかった。 そう、ここは『閉ざされた』空間なのだ。 何をされようとも、ここから逃れられないのは解っている。 何時しか額には武人の手がか
頭数合わせで皇帝主催の慰霊式に出席していたユノーは、式典が終わるなり聖堂から走るように退出した。 式に出席していた神官の中に、神官籍を持っているというあの人がいるのではないか。ならば、せめて無事帰還できた礼を伝えなければ。 そう思ってみたものの、聖堂の中では数え切れないほどの参加者に囲まれ、身動きが取れなかった。 加えて神官たちははるか前方の祭壇の周りにいたため、顔までははっきりわからない。 そこでユノーは出口付近で三々五々退出してくる神官たちからあの人を見つけようと思ったのだが、皆等しくフードを目深に被っているので、覗き込むわけにも行かない。 あきらめかけたその時、ユノーはあるものを感じた。 他でもない、じめじめとしたかび臭い空気……最終決戦の直前、司令官を起こしに行ったときに感じたあの空気だった。 吸い寄せられるようにユノーはその方向に歩を進める。 そして気が付くと、兵舎地区の一角に足を踏み入れていた。 個性のない家が建ち並ぶ、その片隅の一軒からそれは流れ出していた。 通りすがりの住人──恐らく衛兵の家族だろう──に、そこに誰が住んでいるのか、と彼は尋ねる。 すると、殆ど見かけたことはないが、という前置きの後で、あれは『無紋の勇者』の家だという答えが返ってきた。 嫌な予感がする。 いや、予感と言うにはその感覚は余りにも強すぎた。 閉ざされた扉の向こうからは、尋常ではない邪気を孕んだ空気が溢れてくる。 扉を叩くのももどかしく、ユノーは思い切って扉を開く。 かすかな邪気よけの香の残り香があるのだが、それはかび臭さに浸食されている。 その臭気に思わず口と鼻を抑え入口で立ち止まるユノーの視界に入ってきたのは、苦しげに床にうずくまるシーリアスの姿だった。「し、司令官殿! 閣下! いかがされましたか?」 叫びながら近づくユノーに、苦しげな息の中、だがはっきりとシーリアスは告げた。
皇帝の妹姫ミレダは、宮廷内に併設されている兵舎地区へと向かっていた。 ルドラで勝ち戦を納めた蒼の隊が皇都に帰還してから、行政府は戦死者に対する恩給や負傷者に対する補償金などの事務で手一杯の状況だった。 それらの決裁権を有するミレダは、あることを決定するため無理矢理時間を作ってここに来た。 今現在、行政府で問題になっている事案に対する、ある人物の『意見』を聞くために。 その人物が住む質素な家の前で彼女は立ち止まり、古びた扉を叩く。 それは来訪を告げるためではなくて、気まぐれな家主が在宅しているか不在かを確認するための行動だった。「開いてる。勝手に入ってくれ」 素っ気ない声が内側から返ってくる。どうやら家主は在宅のようだった。 礼儀の欠片すら感じられないその声に、だが気分を害するでもなくミレダは扉に手をかける。 扉が開くと同時に彼女の鼻を突いたのは、むせ返るような香木の焚かれる匂いだった。 邪気を遠ざけると言われるこの香は、神殿や聖堂ではそれこそ途切れることなく焚かれている物である。 そして戦士と神官という異なる二つの顔を持つこの家の主が戦場から戻るたび、まるで身体に染みついた血の匂いをうち消すかのように絶やすことがないことも、彼女は知っている。 そして戦で勝利を重ねるたび、一度に焚かれる香木の量が目に見えて増えていることに、彼女は一抹の不安を感じていた。「いい加減、この匂いは強すぎるんじゃないか? 何もここまでしなくても……」 言いながらミレダは後ろ手で扉を閉め、家の主に声をかける。 埃が積もった机の上には、司祭館の書庫から借りてきたと思しき分厚い教典が鎮座していた。 家主は来客に目もくれず、黙々と作業を続けながら先程同様の素っ気ない口調で答える。「……今回は色々面倒なことがあって少しばかり厳しかった
予想外の出来事が重なったものの、今回も『蒼の隊』はその不敗神話を裏切ることはなかった。 けれど、戻ってくる全軍を迎える後衛のシグマは、帰還してくる隊列の中に友人の姿を見つけることが出来ずにいた。 不安げに表情を曇らせ何か言いたげに見やってくるシグマに、司令官は眉一つ動かさずに告げる。 参謀長閣下とイータ・カイ卿は、名誉の戦死を遂げた、と。 本当なのか、とシグマは青ざめた顔をして下馬するユノーに胸ぐらを掴まんとする勢いで詰め寄る。けれど、ユノーは返す言葉がなかった。 カイ本人の名誉を守るため、そして友人を思うシグマのためにも、真実は語るべきではない、そう判断したからだ。 その後、わかっている限りの戦死者の名が告げられていく。 シグマ以外にも、それまで幾度となく戦場を共にしてきた戦友を失った者達の嗚咽が、あちらこちらから聞こえてくる。 中には膝を付き拳を大地に打ち付けながら号泣する者もいる。 それらの姿を目にしたユノーは、自分が生き残った……生き残ってしまったということをようやく思い知らされたのだった。 ※ そして、何事もなかったかのように夜が訪れた。 心配された新たな敵から追撃が行われる気配もない。どうやら先方もこれ以上の戦闘は無益と判断したのだろう。 おかげで、蒼の隊は久しぶりに静かな時を迎えることができた。 陣のあちらこちらで生き残った者達が、ささやかな祝杯をあげている。 やがて闇が深くなっていくにつれさすがに彼らも眠りにつき、次第に周囲は完全な静寂に包まれる。 その耳が痛くなるような音のない世界で、心身ともに疲れ切っているにもかかわらず、ユノーはどうしても寝付くことができずにいた。 目を閉じると、戦場で見た惨状がまぶたの裏に浮かび上がってくるのである。 敵味方の無数の躯(むくろ)がゆらゆらと起き上がり、恨みをはらんだ目で睨みつけながら、こちらへ来いとでも言わんばかりに手招いているような気がしてならない。 そんな彼の耳に、歌うような不思議な声が聞こえてきた。
『エドナの死神』と恐れられるロンドベルト・トーループが配下の部隊を率いルドラに到達した時、戦は既に終結しようとしていた。 どう見ても敵軍勝利という、予想通りの状態で。「いかがなさいますか? 追撃を仕掛けてはどうでしょう」 背後から参謀に声をかけられて、しかしロンドベルトは目を伏せ首を左右に振った。「今さら追いかけても、時間の無駄だ。ただでさえこちらの補給線は限界まで伸びている」 深追いしても袋叩きに合うだけだろう。 そうつぶやくと、ロンドベルトは不服そうな参謀を無視して、右手に控える女性に声をかける。「副官、全軍に伝達。負傷者をできる限り収容した後速やかに撤退する」 かしこまりました、と彼女が馬首を返そうとした時だった。 傷だらけの伝令が一人、彼らの前に文字通り転がり込んてきた。「イング隊のロンドベルト・トーループ将軍とお見受けいたします。我が隊の司令官がお会いしたいと申しております」 突然のことに、副官と参謀は等しく司令官をみつめる。 一方ロンドベルトはその漆黒の瞳をわずかに細め、低い声で伝令に問うた。「失礼ながらお尋ねする。シグル隊の司令官……バウワー殿はご存命なのか?」 すると、伝令はその言葉に打たれたように深々と頭を垂れる。「は、はい。恐れながら本陣にお運びいただきたいと……」 そうか、とつぶやくと、ロンドベルトは吐息を漏らす。 そして今度は左手後方に控える参
どす黒い思念が、ユノーを取り巻く空間に先程より強く流れ込んでくる。 次の瞬間、彼の視界の端で何かが動いた。 何事かと向き直った瞬間、参謀長を取り巻く一角となっていたカイが手にした剣を閃かせ虜となっているその人を切り伏せた。 と同時に、その勢いを保ったままシーリアスに向かい突っ込んでいく。 異変に気付いたシーリアスが振り向いた時には、カイは絶叫をあげ大上段から剣を振り下ろそうとしていた。 間に合わない。 その場にいた誰もが、等しく目を覆う。 が、信じられないことが起きていた。 鈍い音と共にカイの剣の先端部は何かにぶつかったかの様に折れて弾け飛び、草むらの上に突き刺さった。 強固なまでのユノーの防御が、皮肉にもその術を教えた人からの攻撃を防いだのだ。「何で……何で貴方が、こんなことを……」 まだ信じられない、と泣きそうになりながら問うユノーに、カイは剣を引き寂しげに笑った。「やっぱり防御止まりにしておいて正解でしたね、司令官殿。こんなに不安定な精神状態じゃ、何が起こるか解らない」 最後まで貴方にはかないませんでした、とカイは自嘲気味に笑う。 そして、ユノーの方を見、彼は寂しげに言った。「……そのうち、君にも解るときが来るよ。うだつの上がらない下級貴族の惨めさがね」 言い終えると同時に、カイは先端が折れた白刃を自らの首筋にあてる。「……君は、自分のようにはなるなよ」 そして次の瞬間、カイは剣を一息に引いた。 止める間すらなかった。 その傷口から噴水のように鮮血があふれる。 即死であろう事は間違いなかった。 自らが作り上げた深紅の沼の中に、事切れたカイは馬の背から落下する。 その顔には何故か満足げな微笑が浮かんでいた。 その様子を、凍り付いたようにユノーは見つめていることしか出来なかった。 手を差し伸べることも、泣き叫ぶことも出来ぬままに。「……安心しろ。お前の責任じゃない。奴が勝手に選んだ道だ」 背後から、いつも以上に突き放すようなシーリアスの声がする。 それが恐らく自分の心情を思っての精一杯の慰めであることを、ユノーは理解していた。 いや、理解しようとしていた。 だが、結果的に自分がカイを殺してしまったのではないかという考えがよぎる。 けれど、もしあの時、自分が飛